武道家と神と神技 、 武士道とは

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武士道とは 
本来、武道とは 倒すか、倒されるか、言い変えれば、生きるか死ぬか、二つに一つで有る、
戦国時代の武士社会で有れば戦いの技、殺し合いの技だったので有る、正に戦う道なので有ります。
生死を賭けて取り組まなくてはならない道なので有ります。此の生死を賭けると言う点で、仏教や儒教、神との接点が必然的に生まれて来るので有ります。    又、其れだけでは無く茶道や華道との結びつきも生まれて来るので有ります。
特に茶道における茶室の入口は非常に狭く、にじり口と言って其処に入る際には頭を下げて前かがみに成り身体を小さくして、にじりながら入ら無けれなら無いので此の名前が付いたのだといいます。
では何故こんなに小さな小さな入口をわざと設けたので有ろうか、 茶室の中と言うのは、だいたい四畳半ぐらいの狭い空間の部屋である、
その狭い空間こそが、戦国時代の、日々死を覚悟した、武将達が、心の安らぎを得る唯一の癒やしの空間であったので有る。此の狭い空間の中に入って茶の湯の  詫び、寂びの世界に浸透し ,茶道の幻想的な儀式の中で、時を忘れ、戦を忘れ、生き死を超え忘れさせられる唯一の空間なので有ります。
其れゆえに、この茶室の狭い空間の中には武士の魂であると言われている大小の刀さえ持ち入る事は出来ないので有ります。 正に此処に、武器である刀を持ち入ると言う事は野暮な事この上無いので有ります、 そこで入口で、大小の刀を預け、正に丸腰のままで、にじりながら入って行くので有ります。考えて見れば、無防備この上無い丸腰なので有ります、此処でもし 敵の一軍が一度に跳び込んで来られたならば何の手立ても出来ないので有ります、
そこでわざと、入り口を極端に狭くして、敵の侵入を極力防いでいたのであろうと、
但し此れは、あくまでも私自身の推測で有りましすので、茶道の大家の解釈とは少し違っているかも知れません。
   つずくp1  

武道家と神と神技  心を返り見る

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四十を過ぎたら自分の顔に責任と自信を持てと言われますが、正に其の通りだと思います、
とにかく昨今は心の時代と言われていますが、しかしながら心が殺伐で優しさや、思いやりが薄れ
自分勝手で自分さえ良ければ他人はどうでも良いと言った風潮で、かつて世界中から賞賛された優しく美しかつた日本人の心はいつの頃から、どうして薄れて行ったのでしょうか、しかし人の心は感化され易いと言いますが、私自身も道を歩いていたり、車や電車に乗っている時に、ふと自分も悪い方の心に混ざっている事に気付き、思わずハッとする事が確かに有ります、
人を叱って怖がらせて頭を下げさせるので無く 人に喜んでもらって感謝の気持ちで頭を下げて貰える様な人に成りたいと、歳を重ねるとそう思う様に成って来ました。
愛が有るから優しさがあり
愛が有るから思いやりがあり
愛が有るから美しさがあり
愛が有るから平和がある
其の愛をいつ何故どうして置き忘れたのでしょうか、
何とか昔の様な美しき国の日本人に戻す事は出来ないのでしょうか。又其の原因は、いろいろ在るでしょうが、
其の中の大きな要因の一つに、やはり幼少期の徳育教育に在ると思います、
産まれたての子供の心は真っ白です、純白の絹の布と同じです、純白の布はどんな色にも染まります、其れを美しく染めるか汚く染めるかは親や周りの大人、教育者です
最近の親は全く道徳、徳育教育を考え無いで、ただ成績を良くするだけの為にのみ高額を払って、良い学習塾に入れレベルの高い学校に入学させ、一流企業の重役、高級官僚や公務員にさせる事だけを夢に見て、成績だけを重視し成績が悪ければ、もう駄目だお前は社会の落ちこぼれ者だと決めつけてしまう、子供にして見ればたまったものでは無い、もっと別の事が遣りたい、プロスポーツ選手で人生を試して見たいと言う夢も有ろうし能力が有り自分を活かせるかも知れないのに挑戦したい、其の隠れた能力さえ大人が潰してしまっている、その様な社会で
健全な精神を持つた社会人に育つはずが無い、だからエリート社会と言われいる様々な職業、例えば裁判官や検事、弁護士、政治家、官僚、医師、大学教授、小、中、高の教師、はたまた警察官まで今までには考えられ無い様な地位、立場の者が平気で犯罪を犯してしまう様な社会で有ります、 其れも下は痴漢から、万引、恐喝、強盗、殺人まで
この様な社会を元に戻し美しき国、日本人を取り戻す方法は全く無いので有ろうか、
次の世代の為にも我々大人が必死に成って努力しなければなら無いと心の底からそう思いました、 一人ひとりが常に正義心を意識し、心穏やかに、こころ美しく、こころ温かく、こころ楽しく、あの人の傍ヘ行けば何故か心が穏やかに成って落ち着けて温かい気分に成ると言われる人が、あちら此方に現れて、そういった人の輪を広めて行って温かく美しい心の輪を増やす方法がベストではないでしょうか、 しかしこの様な立派な事を最もな様に書いている私ですが、自分自身、毎日が日々反省の連続です、どうしたら少しでも神の心に近づけるのか、試行錯誤の連続の毎日で有ります、大変な事で有ります、ここで差し詰め、禅僧で有れば座禅を行うのでしょうが 我々武道家は日々の稽古、鍛練によって、其れを導かなければなら無いと思います。

武道家と神と神技 、神の心に近づく   

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以前にも述べましたが
神様が人間に二つだけ自由にして良い事を与えて下さった
其の一つが呼吸であって、もう一つが大変重要な心です、人は努力次第で心すら変える事が出来るのです、
しかし此れが又、厄介で大変難しい事なのです、人はそれぞれ誰でも、良い心と悪い心、優しい心と怖い心、思いやりのある心と思いやりの無い心、清い心と汚れた心、と何故か表裏の心を持ち合わせています。 神様はそれぞれを自由に使えるように作られたのでしようか、では何故どうして良い心、清い心、美しい心、優しい心、思いやりのある心だけを与え無かったのでしょうか、其れは良い事を行なえば良い心になり 悪い事を行なえば悪い心になると言う事を教え導く為にそうしたのでは無いでしょうか、
綺麗な空気を吸えば心が、すがすがしくなり
美くしい景色や絵画を観れば心美しく成り
心、優しい人に接すれば自分も優しくなり
人に喜んで貰える事をすれば自分自身も嬉しく成り、晴れた日には心も晴れるように
心は常に自分自身の行動と気分に伴って変化します、と言う事は、 
逆を考えれば人も努力さえすれば、心すら変えられると言う事に成って来ます。
こちらの機嫌が悪ければ相手もなぜか其れを感じ取って、いい気分がしない、しかしこちらが優しい心で優しい気分でで微笑んで居れば少しくらい機嫌が悪かった人も穏やかな気分に戻って来ます、
又相手が嬉しそうにしていると此方も何の理由がある訳でも無いのに嬉しく成って来ます、又、あたたかい心の人の傍へ行けば何故か自分もあたたかい心に成って来ます、楽しくほがらかな人の傍には、いつも人が大勢集まって来ます、  美しい人は、やはり姿、形も美しいのです、  意地悪な人は、やはり意地悪そうな顔をしているし、悪い事ばかりしている人は、やはり悪そうな顔をしています。
よく男前とか美人とか言われますが、男前と良い顔をしている人とは又、別のものだと思います、男前と言うのはただ形だけ整っており、現代風に顔が小さく、細面の顔だったら良いのであって、心や自分が今までやって来た事に対する自信と言った物が顔に現れて居ないからなのです、
其れに引き換え、良い顔をしていると言われる人は自信に満ち溢れ自分が歩んで来た道で立派に成功し、其の自信から溢れ出る、おおらかな心と、苦労もした時代もしっかり経験しているので、人には優しく、ゆとりと自信から来る確信を持つた顔をされています。      続く

武道家と神と神技 、心を無にして待つ   

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相手の攻撃を、正しい心で待つと言うのも重要なポイントに成って来ます、
体の力を抜き、欲の力を抜き心の力を抜き、勝とうとする力を抜き、敗けたく無いと言う力を抜き、呼吸に意識し、
集中し、其のうち其の呼吸すら忘れ、全てを空にして待たなければ成りません、
其処で本質は何を待つかと言う事に成りますが、
相手の放心状態を見抜くのです、人は誰でも極度の緊張状態や神経を張り詰め過ぎると自らの生命を守り維持する為に、   人の体の中には其れを自動的に切ってしまうリミッターと言うのが備わっていて無意識の内に自動的に切ってしまうのです、
其の一瞬は無意識で立ったまま寝た状態なのです、其れこそが放心状態なのです。
其の一瞬の無意識で立って寝ている変化を事細やかに見逃さず瞬時に反応して攻撃を掛けるのです、相手がまだ其の極限状態に入っていない状態の時にシビレを切らして不用意にがむしゃらに飛び込んで行けば逆に相手が待ちで其のタイミングを待ち受けているので相手の思う壷に入ってしまうのです、
但し此れは我々が数十年前に行なっていたあくまでも武道空手の試合形式で有効であって、今の様に数秒攻撃を仕掛けなければペナルティーを掛けられる競技空手では使えません。


武道家と神と神技 、 攻撃 其のニ  

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前回4月十三日からの続き
攻撃其のニ
まづ攻撃を掛けて前に出る場合、真っ直ぐに直線に踏み込むのではなく、対角線上に斜め前に踏み込みます、真っ直ぐに直線的に踏み込むと相手は出合のタイミングを完璧に狙って来ていますので間違い無く打ち返して来ます、
此れは大変無謀かつ危険で余裕がないやり方です、
相手が左構えで左手を前にして構えて居る場合、打ち込む側は先ず自分の左手で相手が前に出した左手を払い下げながら後ろ足である右足を斜め右前、こちらから見て、相手の体の右側に 廻り込むようにして、大きく踏み込みざまに自分の右拳で相手の右肩を、かすめる様に上段に的確に突きを入れます、
そうすれば結果的に相手の体の右横から後ろに廻り込む様な形に成るので相手の二本目の右拳以降の攻撃も避けられ事に成ります。
又、相手が右構えで相手の右手が前にあって、こちらが左構えの場合、相手の右手と自分の左手がぶつかりそうな距離で構え合っている、この場合は自分の前の左手で相手が前に出してある右手を打ち落としながら自分の前側にある左足を大きく左、斜め前に踏み出しながら、こちらから見て相手の左側から後ろに回り込む様にして、左拳で相手の上段に攻撃を仕掛けるのす。
以下、其のつど其のつど相手によっても変わるし、相手の構えた手の位置によっても攻撃の パターンを変えなくてはならない 又、拳から先に出すか蹴りから先に出すかは、相手の構え方、相手との間合い相手の姿勢、目線、気迫、なので其のつどその場で 瞬時に判断しなければなりません、何一つとして同じパターンは無いのです、相手と向き合った場合、間も間合いもタイミングも何も考えずに、ただがむしゃらに飛び込んで行くのでは無く、十分に氣を充実させ氣を練って、相手の氣を読み取り、行くと見せては止め、前に出ると見せて後ろに下がり、相手にこちらの間を計る隙を与えず、錯乱させ相手の氣の迷いを読みきった瞬時に踏み込み、攻撃を仕掛けるのです。そうすれば相手に打ち返す、間を殆ど与える事なく済むのです。              

武道家と神と神技 、 攻撃   

f:id:tatsuhito1:20200413121104j:plain相手に攻撃を掛ける時、後ろ足のかかとを浮かし、その浮かした足のつま先をバネにして床を蹴り其の勢いで前足を前に踏み込みながら前に有る拳を踏み込む勢いを利用して相手の上段なり中段に打ち込むので有りますが ,
此のさい腰を中心に身体全体のバネを利用して拳を打ち出ささ無ければ成りません其の時、前に飛び出す加速度と身体全体のバネをバランスを取りながら、最良のタイミングで素早く打ち出し、
自からの全体重と加速度とからだ全体のバネが拳の先に全てが一つに集中して加わって居なければなりません、此れが完壁に出来ているので有れば一撃で相手を倒せるのは物理的、力学的に言っても、ごく当たり前結果に成ります。 次に連続して攻撃技を懸ける場合、後ろ足のつま先で床を蹴った勢いで前足を前に出し、それと同時に前にある拳を身体の動きに合わせて上段に繰り出し 次に間髪を入れずに二本目を上段なり中段に打ち出すのですが、一本目に繰り出した拳を引いてから二本目の拳を 出すのでは無く 一本目の拳が伸びきって其の伸びきった拳を 筋肉のセンサーが此れ以上腕を伸ばすと腕の関節、肩の関節が抜けてしまうと判断して引き戻そうとした時点で次の二本目が出て行かなくてわ成りません、そして今度は三本目に回し蹴りを出したい場合は 其の二本目に繰り出した拳を引く引手の勢いを利用して 二本目の拳を引きながら三本目の回し蹴りを出すのです。この際の歩幅も前に述べたように送り足を使い、常に一定にしなければなりません又、回し蹴りを終えた後、其の足を前に置くか、 後ろに置くかはその時の相手との間合い(距離)によって変わってきます、常に一回、一回 其のパターンが違って来るのでその場、 その場で其の刹那(瞬時)に判断をしなければなりません。
     つずく